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BOUDICCA the warrior queen
あなたはイギリスのヒーロー、「ブーディカ」を知っていますか?
A.D.60年、まだイギリスがグレートブリテン島と呼ばれていた頃、ブリテンはその大部分がローマ帝国の植民地と化していました。その当時、ブーディカはケルト人イケニ族の王プラスタグスの妻でした。イケニ族の治める東海岸(現在のノーフォーク地方)は、ローマ帝国の支配が及ぶ範囲ではなく、王はローマ帝国と同盟関係を結び、領主としてその地を治めていました。しかし、その当時のローマ帝国の同盟条約は、「王の称号は本人のみで、本人が死亡すれば消滅し、相続できない」という、その武力を背景にした理不尽な条約でした。そのため、プラスタグス王の死後、ローマ軍は条約を盾にイケニ族の領地を奪い、王の妻であったブーディカ及びその2人の子供に対し鞭打ちの刑に処した後領土より追放しました。国を奪われたブーディカは復讐を誓い、近隣部族を諭してローマ帝国への反撃の狼煙を上げます。
ルネサンス時代に発見された歴史書によると、反乱軍のリーダーに推されたブーディカは、勝利の女神として、2人の子供を脇に立たせ、チャリオットに搭乗し23万もの反乱軍の指揮を執っていたと記録されています。ブーディカ率いる反乱軍は、ブリテン各地のローマ帝国植民地に攻め込み、これを開放し、自由を奪われた復讐を叫びつつ各地を転戦しました。ブーディカ反乱軍により都市ロンディニウム(現在のロンドン)が陥落した時、当時のローマ皇帝ネロはブリテンからの軍の撤退を真剣に考えましたが、ロンディニウムとウィロコニウム(現在のシロップシャー州)の間で行われた会戦によりローマ軍が勝利し、ブーディカ軍が壊滅したため、その後もローマ帝国によるブリテン島支配が続きました。会戦後のブーディカの行方は知れず、現在では敗戦の責任を取った服毒自殺説と病死説があります。
ちなみに、このブーディカ伝説は1928年と2003年の2度映画化されています。
『ブーディカ』は、A.D.60年に発生した、ローマ帝国の植民地であったブリテン島でのケルト人の反乱をシミュレートしたゲームです。
ブーディカという単語は、古代ケルト語で”勝利”を意味する単語に由来し、ヴィクトリア女王のヴィクトリアと同じ意味です。彼女の名前は日本ではあまり馴染みは有りませんが、イギリスでは、フランスのジャンヌダルクに比する勝利の女神として知られています。このゲーム自体は1984年にウエストエンドゲームズから発売された『ドルイド:ブーディカズリベリオン61AD』(デザイナーはリチャードバーグ先生)のリメイクとなっています。
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