関ヶ原

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1598年8月18日、天下を獲った秀吉が62歳の生涯を閉じた。そして熾烈な跡目争いが始まった。
秀吉の死により、第二の実力者として脚光を浴びたのは家康だった。家康は、秀吉の家臣が武人派と文官派に分かれて対立・反目しているのを利用し、武人派の諸大名の懐柔と買収を始めた。これは秀吉の死の直前に交わされた五大老・五奉行間の誓約書に背くものであったが、諸大名は家康の権勢を恐れて誰もなにも意見できなかった。しかし、これを放置していては豊臣政権が崩壊しかねないと危惧したのは近江城主石田三成である。家康と残りの四大老・五奉行の間には一応和議が成立したが、五奉行の一人であった三成は、家康は本質的に豊臣の敵であると認識し、その排斥を画策し始めた。家康はその後も着々と武人達の人望を集めるとともに、戦が起こることを望んでいた。そう、秀吉亡き後の首座に着くものを決める戦いを。それには家康を憎む勢力の筆頭、石田三成に兵を起こさせるのが一番だった。そして、チャンスはやってきた。五大老の一人上杉景勝が自城の修理や武器の購入をしていたことに目をつけ、謀反の意志ありと断罪して景勝に上洛を命じた。無理な命令に従えなかった景勝に対し、家康は武人派の武将に銘じて景勝討伐の兵を挙げさせた。これを不服として、三成は大阪方で兵を挙げた。これに対し家康は小山で軍議を開き、西上して三成の軍を破ることを決議した。ここに、日本を東西に分けた大合戦が避けられないことが決まった…。
慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍は美濃の国西端の関ケ原で激突した。天下分け目の関ケ原の戦いである。この合戦で東軍は、6時間に渡る激闘の末西軍を撃破し、家康は実質的に豊臣の天下を奪い取ったのである。
「関ケ原」は、関ケ原の戦いをテーマとしたシミュレーションです。しかし、合戦そのものだけをシミュレートしたものではなく、実際の関ケ原の戦いがそうであったように、家康側と三成側の事前工作を重要な要素としてゲームに取り入れています。実際に関ケ原で両軍が対峙した時、参加武将たちの大半は心に動揺を抱えていました。それは、それらの武将に対する家康側と三成側の事前工作が原因です。例えば、西軍が毛利輝元・豊臣秀頼の出陣参戦に成功していたならば、小早川秀秋は裏切らず、更に東軍武将の中から西軍に寝返るものが出ていてもおかしくなかった筈です。両軍共信頼しきれない味方を連れての合戦、それがこの関ケ原の本質であり、このゲームをプレイすることによってそれを実感できるでしょう。
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