ちょこ大佐のゲーム三昧6
初版 2019/11/07 18:29
『ゲーム会社訪問~AH編』
レポーター(以後、レポ)「本日は、こちらアメリカはボルチモアにあるアバロンヒル社におじゃましております。こんにちわ。」
AH広報(以後、広報)「ようこそいらっしゃいました。」
レポ「それではまず、御社の設立経緯を教えてください。」
~ 設立経緯 ~
広報「アバロンヒル社は、1954年にチャールズ・S・ロバーツがアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアに、アバロンゲームカンパニーという名前でガレージメーカーとして起業しました。その後、1958年にアバロンヒルゲームカンパニーという名前で正式に会社として設立し、本格的にゲーム業界に参入しました。ちなみに、アバロンという会社名は、ロバーツの自宅の住所から取っております。」
レポ「ロバーツ氏が社長としてゲーム会社を設立した動機は?」
広報「そもそも、ロバーツはアマチュア時代の1952年、簡単に実際の戦争をゲームとして再現できるものとして『タクティクス』というゲームを作りました。これを1954年のガレージカンパニーで販売したところ、2,000セットを完売し、商売としてウォーゲームは成立すると見込んでのゲーム会社設立ですわ。」
~ ウォーゲームの父と呼ばれて ~
レポ「ロバーツ氏がウォーゲームの父と呼ばれているゆえんは?」
広報「ロバーツが作った『タクティクス』は、今までにない画期的なシステムを盛り込んだものでした。野球の表裏のようなターン制、1ターンに複数の駒を動かせる、盤上のグリット、戦闘や移動に及ぼす地形効果、戦闘結果表(CRT)、支配地域(ZOC)など、現在でもウォーゲームの基礎となっているシステムをことごとく考案したためです。」
レポ「設立後の会社の状況は?」
広報「会社設立初年度に『タクティクス』を更に改良した『タクティクス2』を発売、同時に『Gettysburg』と『Dispatcher』を発売しました。売り上げは順調でその後、20本のゲームを制作、発売しました。その中でロバーツ自身がデザインしたゲームで、日本でも発売されたのは『タクティクス2(1958)』『米国南北戦争(1958)』『Dデイ(1961)』『戦艦ビスマルクの戦い(1962)』『スターリングラード攻防戦(1963)』『ドイツアフリカ軍団(1964)』の6本です。」
~ 買収 ~
レポ「その後ロバーツ氏は会社を去りますよね?」
広報「はい。1962年頃から会社の業績が思わしくなくなりました。主な原因は発売したゲームのうち、ウォーゲームは実は約半分程度しかなく、残りは『Stock Market』や『Smokers Wild』などのビジネスゲームやファミリーゲームでした。これらのウォーゲーム以外のゲームの販売不振が響き、会社は債務超過に陥り、1963年に債権者のひとりであった印刷会社のモナークサービスに買収され、ロバーツは責任を取って会社を去りました。」
レポ「残念です。しかしその功績を讃えられ、最優秀ウォーシミュレーションゲームに与えられる賞の名前は、”チャールズロバーツ賞”と名付けられていますよね。」
広報「はい、彼が今でも偉大な功績を残したことは間違いありませんわ。」
レポ「偉大な人だったんですね。」
~ 大人が遊べるゲーム ~
広報「はい、経営者としては失格だったのかも知れませんが、デザイナーとしての才能と、何よりその信念”大人が遊べるゲームを作ろう”は、会社が傾いてからも1ミリたりともゆるぎませんでした。また、ウォーゲーム業界をけん引するリーディングカンパニーとして、できるだけたくさんのユーザーにこのホビーを楽しんで欲しい、敷居を低くして遊んでもらえる人を増やしたいという思いから、初期に発売されたものは、ほとんど同じルールで遊べるものばかりとなっております。これらは品番が500番台で発売され、現在ではアバロンヒルクラッシックと呼ばれています。」
レポ「確かに他のゲームメーカーと違い、御社のゲームは遊びやすい、いわゆるプレイアビリティが高いものが多いですね。尤も、第二次世界大戦ものとナポレオンものが同じシステムというのもかなり無理があったと思いますが。」
~ 徹底したデベロップ ~
広報「それはご愛敬ということで。弊社のゲームが遊びやすいというのには理由があります。これもロバーツがこだわった部分で、弊社はゲーム開発時には徹底的にテストプレイ(デベロップ)を行い、改良に改良を加えてからやっと発売にこぎつけるのです。そのため、年に3~7本ぐらいしか新製品を出せませんでした。他のゲーム会社から比べると非常に少ないと思います。」
レポ「それで、ロバーツ氏が去った後の会社は?」
広報「ロバーツと共にデザイナーとして当社に在籍していたジェームス・F・ダニガンが頑張ってくれ、『ジュトランド沖海戦(1967)』や『パンツァーブリッツ(1970)』を発売しました。」
レポ「でも、ダニガン氏は1969年には御社を退社なされますよね?」
広報「ええ。彼は”テーマが違えばシステムも違うべきだ”という信念の持ち主でしたから、弊社のできるだけ同じシステムで色々なゲームをというポリシーに会わなかったのですね。」
~ ライバルSPI設立 ~
レポ「ダニガン氏はその信念にのっとって新たな会社を作った、と。」
広報「はい。それは業界にとっては多様性に繋がるのでいいことだと思いますわ。弊社を退社したジェームス・F・ダニガンが、1970年にシミュレーションズ・パブリケーション・インコーポレーション(SPI)を設立、1970年後半から1980年にかけて弊社と並ぶ、業界をけん引する会社となったのもこの業界が発展した一因ですわ。」
レポ「でも、SPI社は1982年に倒産しますよね。」
広報「ダニガンは急ぎすぎたのかも知れません。強烈な印象を残し、あっというまに駆け抜けていきました。」
~ その後の業界再編 ~
レポ「その後の御社の活動は?」
広報「Guidon games社から古代戦の『アレキサンダー大王(1975)』や3M社からマルチゲーム『アクワイア(1976)』、ジェドコゲームズ社『独ソ戦(1977)』など、過去の名作の版権を中小出版社から買い取り販売したり、ウォーゲーム以外のゲームの製作をしたりしておりました。また、ジョン・ヒルがデザインした、今でも残る戦術級の傑作『戦闘指揮官(1977)』も発売しました。」
レポ「その後、ウォーゲーム業界は色々と動きますよね。」
広報「はい、1982年に倒産したSPI社のデザイナーを集め、資金提供してビクトリーゲーム社を設立しました。こちらのブランドでは、アバロン本社では制作しない精密なシミュレーションゲームを発売いたしました。『第2艦隊』などのフリートシリーズやソリティアの名作『アンブッシュ』などです。しかし新しいデザイナーを雇用しなかったため、VG社も1989年に解散します。」
レポ「1990年代になるとアメリカではウォーゲームの衰退が目立ってきましたよね?」
広報「はい、そのため親会社のモナークアバロン印刷社は、1998年に遂にアバロンヒル社を解散します。最後のゲームはASLモジュール#14『ドゥームド・バタリオン』でした。」
~ そして現在へ ~
レポ「でも、引き継がれますよね?」
広報「はい、在庫とブランド名はそのネームバリューが失われるのを惜しんだハスブロー社に600万ドルで買い取られ、紆余曲折の後、現在はハスブロー社の子会社であるウィザーズ・オブ・ザ・コーストの一部門として名を残しています。そうです、シミュレーションゲームの火は聖火リレーのように今でも引き継がれているのです。」
レポ「そうですね。本日は長々とありがとうございました。」
アバロンヒル社のゲームの特徴は、
・厚紙に裏打ちされたハードマップ
・分厚いコーティング(表だけ)されたカウンターシート
・丈夫な箱
でした。すべて、長くゲームを遊べるように考えた豪華なパッケージと言えるでしょう。ここにもアバロンヒルの思想が見て取れます。
ロバーツ社長時代に発売されたウォーゲーム:
『#502タクティクス2(1958)』
『#501米国南北戦争(1958)』
『#? U-Boat(1959)』
『#508Dデイ(1961)』
『#? Chancellorsville(1961)』
『#? Civil War(1961)』
『#? 戦艦ビスマルクの戦い(1962)』
『#516ワーテルローの戦い(1962)』
『#518スターリングラード攻防戦(1963)』
『#600ドイツアフリカ軍団(1964)』
『#601ミッドウェイ海戦(1964)』
『#602 バルジの戦い(1964)』
※日本語解説書付きで日本で販売されたものは日本語タイトルで表記しています。
実は以外に少なかったりする。品番500番台がクラッシックと言われるもの。
(当時のゲームの箱に同梱されていたアバロンヒルカタログ。モノクロで武骨なのがいかにもアバロンらしい)
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