吾が輩はタコである(ゆでダコ状態)~旧森鷗外・夏目漱石住宅

初版 2024/08/12 10:07

改訂 2024/08/12 21:33

明治20年頃に東京都文京区千駄木町に建てられた森鷗外・夏目漱石住宅にやって来ました。

この家はもともと医学士の中島襄吉の新居として建てられたものです。襄吉は勤務先の都合でここに住むことなく、そのためにほぼ新築のまま空家になっていましたが、ドイツ留学から間もない鷗外が借家して明治23年(1890)9月、この家に移りました。すでに陸軍軍医として勤務する傍ら文筆を執っていた鷗外は、ここで文学評論雑誌『しがらみ草紙』の刊行を続け、我が国の初期浪漫主義の作品とされている小説『文づかい』等を執筆。この家は千朶山房と呼ばれ、鷗外の活発な文芸活動が行われたところです。明治25年(1892)1月には、同じ千駄木町21番地の観潮楼へ移っていきました。(明治村の紹介文より)

その後、中島家の借家となっていたのを、明治27年(1894)に、夏目漱石の学友で歴史学者であった斉藤阿具の父が、阿具の住まいとしてこの家を贈りました。斉藤阿具は明治35年(1902)5月、仙台の第二高等学校に赴任し、翌年には海外留学へ。明治36年(1903)2月、英国留学から帰朝して東京帝国大学文学部などで、英語、英文学を講義することになった夏目漱石がこの家を借りることになりました。漱石は斉藤阿具が帰朝して第一高等学校に転任上京する明治39年(1906)までここに住み、『吾が輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など多くの作品をここで執筆したといわれています(明治村の紹介文より)。それにしても明治を代表する文豪が同じ家に住むなんて、そんな偶然があるのでしょうか。

贅沢さのない中級家族の家といった風情。

襖を開けると意外に広い空間です。窓が多くとても明るい室内です。

明治家屋らしい欄間です。

竹林の素敵な絵柄。

この時期の漱石は悩み多き後年と違い、穏やかな心持ちだったと思います。

鴎外もこの部屋で寝起きしていたのでしょう。

台所です。

蚊帳が吊るしてありました。

簡素ながら床の間もあります。

漱石の書斎を復元した部屋。この縁側からネコが出入りしているのを見て、漱石はあの小説を書いていたのでしょうね。

1990年3月に行ったロンドンで、初めてエドワードグリーンのドーバーを購入しました。以来、ここの靴の虜になりました。質の良いしっとりとしたカーフ、美しい木型、無い物ねだりと分かりながら、この時代のエドワードグリーンの靴を今も追い求めてしまいます。
他に古い靴も修理して履いています。特に戦前の英国靴は素晴らしいと実感しています。

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    レイレイ

    2024/08/12 - 編集済み

    森鴎外、と聞くと毎回自慢したくなっちゃうんですよ~☝️
    ミューゼオで何度か話してるので「またかよ」って思われちゃいそうですが、やっぱり言っちゃうw😁↓

    私の父方の祖母が、森鴎外に求婚され、そして、断りましたw。
    祖母はあの時代には珍しく、身長175cmほどもあり顔も日本人ぽくなかったので、きっと目立ってたんでしょうね。
    祖母はその時まだ若かったので(鴎外がそろそろいい歳だった頃?)、ほら、鴎外さんち色々あったみたい?でw、それで断ったらしい、と聞いてますよ😅

    信じるか信じないか、は、貴方しだい、のお話です🤫

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      グリーン参る

      2024/08/12

      レイレイさん
      これだけお話が具体的だと信じない訳にはいかないでしょう。
      でもおばあさまはご慧眼です。鴎外は文久生まれですから、おばあさまより相当年上ですよね。鴎外はマザコンの可能性があり、結婚後志げさんのように扱われていたかもしれません。おじいさまと出会われて幸せでした(笑)。

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      レイレイ

      2024/08/12

      鴎外マザコン説。
      なんか納得しちゃいますよね。
      義母に連れ子にの大家族の中はキツイですしね。
      でも確か、愛人枠?的なことでお声がかかったらしく、そりゃ両親も反対しますし本人も断りますわな😅ハハハ
      祖母より背の高い祖父と出会えてめでたしめでたし😂

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      グリーン参る

      2024/08/12

      エリスみたいにならなくて何よりです。

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