文明開化の音がする~鉄道寮新橋工場・機械館

初版 2024/05/18 22:37

改訂 2024/08/21 13:26

明治村4丁目にやって来ました。明治5年(1872)に建設された鉄道寮新橋工場です。

(HPの説明文より)鉄道寮新橋工場は日本で初めて鉄道が走った新橋-横浜間の起点、新橋ステンショ(停車場)に機関車修復所として建てられました。日本の鉄道はあらゆる技術をイギリスから導入して開発され、機関車や線路はすべてイギリス製でした。この建物も柱、外壁、サッシ等、すべてイギリスから輸入し、イギリス人技術者の指導の下に建てられ、鉄造プレハブ建築として重要な建物であり、構造力学の理にかなったシンプルな美しさが魅力の建物です。内部には日本の近代化の過程で使われた多数の貴重な機械類が展示されています。

機関車修復所は創建当初2棟でしたが、明治15年頃に7棟に拡張されました。この建物には、その時に鋳造された柱が転用されており、「明治十五年東京鉄道局鋳造」の銘が見られ、明治10年代には早くも舶来品を模して国産化が始められたことを物語っています。

重要文化財「リング紡績」明治26年 精紡機は、前紡工程の練紡機(粗紡機)より供給された粗糸を引き伸ばして所要の太さにしたのち、撚りをかけて糸とし、その糸を自動的に巻き取る機械です。この機械は三重紡績会社で使用され、日本の近代化に大きく貢献しました。

明治後期 印刷機。

重要文化財 「ゐのくち渦巻きポンプ」明治45年

「井口在屋(いのくちありや)」が発明した当時世界から注目された理論に基づいたポンプ。東京帝国大学(現:東京大学)教授の井口在屋が発表した渦巻きポンプの理論は、飛躍的にポンプの性能を向上させる内容であったことから、世界からも注目を集めるもので、このポンプはその理論に基づいて製作されたものです。
井口の教え子・畠山一清が実用化を推し進め、畠山が所属する國友機械製作所(のちのポンプメーカーの荏原(えばら)製作所)が製作しました。
このポンプは、井口式渦巻きポンプの最初期の、現存する最古のものです。
現在でもこのポンプの理論を応用して作られた渦巻きポンプは、灌漑・排水・水道・工業など多くの用途で使用され、社会に広く普及しました。

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創業者ストーリー | 荏原製作所

畠山一清は1881年(明治14年)石川県金沢市で三男三女の末っ子として生まれる。先祖は室町時代に活躍した能登の国の守護大名である畠山満慶を初代とする能登の国畠山家で、一清はそこから数えて18代目にあたり、もともとは大変裕福な家系であった。

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ちなみに畠山一清(畠山即翁)は数奇者・茶人としても知られ、以前ご紹介した雑誌「東京人」にも載っていました。畠山記念館は行ったことはありませんが、素晴らしい美術品がたくさんあり、是非一度は訪れてみたいです。

https://www.ebara.co.jp/foundation/hatakeyama/information/collection.html

コレクション | 畠山記念館

畠山記念館が所蔵する主な作品をご紹介します。収蔵品は、国宝6件、重要文化財33件を含む1300件に及び、茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など多岐にわたります。なお当館では、年4回の展覧会毎に展示品を替えていますので、ここに紹介する作品は常設で展示していません。

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重要文化財「菊花御紋章付平削盤」明治12年

明治政府が殖産興業を推し進めるため設置した政府直轄工場で製作された平削盤です。 

この平削盤は、側面に取り付けられた銘鈑から、工部省直轄工場である赤羽工作分局製作されたことが明らかです。
岩手県の船舶修理工場向けに出荷され、のちに岩手県盛岡工業高校に引き継がれ、実習用として大切に保管されてきました。
菊の御紋は明治政府が殖産興業を推進するために設置した直轄工場で製作されたことの証でしょう。
日本の機械工業黎明期の実情を伝える工作機械として非常に重要なものとなっています。

名称を失念した大型の機械。

明治後期から大正頃の女性用のストッキングを作る機械です。女性用の靴下(ストッキング)を作る機械です。足の形にぴったり合うように、編み目を調整します。靴下を広げた形に編んだ後に縫い合わせるため、後ろ側に縫い目ができるのが特徴です。グンゼ KK塚口工場で使われていました。郡是製絲株式会社(現在のグンゼ株式会社)は、明治29 (1896)年に京都で波多野鶴吉が設立した製糸業の会社です。昭和9 (1934)年から塚口絹製品工場で絹の靴下の製造に取り組みました。この機械を製造したカール・リーバークネヒト社は、ドイツのオーバールングヴィッツにある靴下製造 メーカーです。オーバールングヴィッツは、20世紀の初め、靴下産業により都市として発展しました。

打綿機(三つ行灯) 大正初期(1912年頃) 打綿機は、綿のかたまりをほぐして、ホコリや短すぎる繊維を取り除き、のばして平らなやわらかい状態にする機械です。江戸時代以前の日本では、この作業を「親打ち弓」という道具を使って、職人が手作業で行っていまし た。明治時代の中ごろになると、日本独自の木製の打締機が発明され、同じく日本製のガラ紡機とあわせて使われました。打線機でシート状にされた綿を棒状に丸めた撚子をガラ紡機の間に入れたのです。展示中の機械は、岡崎市の鈴木次三郎によって作られたもので、「愛知県岡崎市能見町 鈴木製」の焼印が押されています。

ここに来ると日本の近代化の歴史がよく分かります。

 

1990年3月に行ったロンドンで、初めてエドワードグリーンのドーバーを購入しました。以来、ここの靴の虜になりました。質の良いしっとりとしたカーフ、美しい木型、無い物ねだりと分かりながら、この時代のエドワードグリーンの靴を今も追い求めてしまいます。
他に古い靴も修理して履いています。特に戦前の英国靴は素晴らしいと実感しています。

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    T. S

    2024/08/20 - 編集済み

    こういう古い工作機械っていいですね。名前失念のものは、おそらく水圧か油圧のプレス機械ではないかと思います。
    いまの汐留のどこかに建っていた建物なんでしょうね。

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      グリーン参る

      2024/08/21

      T.Sさん
      コメントありがとうございます。
      プレス機械とのこと、お教え頂きありがとうございました。この機械館はあまりに膨大な展示量なので、とても私の頭では覚えきれません。汐留には工場が多かったのですね。どの機械も当時の日本人の知恵と工夫が詰まっていて、見飽きることがありませんでした。

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