独逸におけるパンクロック! (その1)

初版 2024/09/16 18:31

ところで、NDWの前に独逸にはパンクロックはあったのか?と言う素朴な疑問もあるかもしれません。前回、Die Kruppsの項で、最後にちょっと書きましたが、確かに独逸にもパンクは存在しました。その内の代表的なバンドやレーベル、更には独逸独自の進化を遂げたパンク等について、今回は書いていきます。

Male (左はJürgen Engler)


独逸で最初のパンクバンドは、今のところ、Male (メイル)とされています。このバンドは当時、まだ高校生だったJürgen Engler (G, Vo), Stefan Schwaab (G, Vo), Bernward Malaka (B)で、1976年12月にDüsseldorfにて結成されており、初め、ドラムはFritjof Aurinでしたが、やがてClaus Ritter (Drs)に代わり、この4人で始まります。噂では、1978年になっても、実際にSex PistolsやThe Ramones等のメジャーなパンクバンドのレコードはそう簡単には入手出来ず、噂だけが流れてきていた状態だったらしいです。そんな中で、1977年3月にはライブ・デビューしており、興奮したメンバーが国旗を燃やす事件が起こって、えらい騒動になったとか。1978年には、ベルリンの有名なクラブSO36でのパンク・フェスのオープニング・アクトをこなしています。当時のライブでは良く喧嘩や小競り合いが頻発し、危険だったらしいです。それで、1979年に、7インチのデビューシングル"Clever & Smart".c/w "Casablanca"を独レーベルRondo (このレーベルはMittagspauseのFranz Bielmeierが運営)から出します。


Male single "Clever & Smart"


また、同時に、唯一のアルバム"Zensur & Zensur"(後にシングル曲やライブトラックも加えた2枚組となって再発されています)をModell Musik(Rock-Onの傘下レーベル)からリリースしています。

Male album "Zensur & Zensur"より"Kontrollabschnitt"

その後、1980年8月後半に、バンド名をVorsprung (フォルスプルンク)と替えて、同年11月1日にベルリン自由大学のAudimaxでのBelehrung Und Unterhaltungフェスでライブを1回だけ行って、このバンドは、1981年初頭に解散・分裂し、EnglerとMalakaは、Die Kruppsを結成、残りのSchwaabとRitterは、Freunde Der Nacht (フロインデ・デァ・ナハト)を結成して、それぞれの活動をしていきます。

Freunde Der Nacht album "s/t"


ただし、Maleは1990年から幾度となく再結成をしており、2005年には”Deutschland Im Herbst"と言う新録アルバムも録音していますが、今のところ、リリースはされていません。一方、日本のCaptain Trip Recordsは、2枚組CDセルフ・コンピレーション・アルバム"Großeinsatz 1977-1994"を2003年に出していますので、まだまだ人気はあるのでしよう。

Male self compilation album "Großeinsatz 1977-1994"

Male single "Die Toten Hosen Ihre Party" (1991年作)。これはDie Toten Hosenのシングルに対するアンサーソング。Die Toten Hosenの項目を参照。

それで、Maleのサウンドなのですが、これはバッチリUKパンク、特にThe Clashのようであり、それ故に「独逸のThe Clash」とも言われ、実際、1980年頃に行われたThe Clashの独逸ツアーでは、サポート・バンドとして帯同しています。歌詞はもちろん独逸語です!この辺りの嗅覚の良さはEnglerの才能でしょう。


次に、「独逸で2番目のパンクバンド」と呼ばれているMittagspause (ミッタークスパウゼ; 俗称ミパウ)について書きます。

Mittagspause

Mittagspauseも1978年7月にDüsseldorfで結成されたパンクバンドで、その前身バンドは、Charley's Girlで、1977年3月に、Franz BielmeierとRamon Luisによって始められ、後にSten Guns, TV Eyes, Aqua Velvaとも名乗りますが、当時は所謂「幽霊バンド」でした。Bielmeierは、Sound誌にフライヤーやメンバー募集を載せたり、また自身が発行していたファンジンThe Ostrichにもメンバー募集をのせていました。そこで、同年4月にPeter Hein (本名Janie J. Jones)がベース希望で入ってきますが、結局ヴォーカルになります。また、Björn Wondracek (後にSten Guns, TV Eyes, Psychotik Tanksにも加入)なんかは早い時期に加入しています。一方で、Ramon Luisは1977年には、ケルンのバンドSten Gunsに加入する為に脱退しており、その後もTV Eyesに専念しています。それで、Charley's Girlの方ですが、Markus Oehlenがドラムで、Peter Stiefermannがベースで加入してきます。更に、1978年には、Muschがギターで加入し、セカンド・ヴォーカルとして、後にDAFを結成するGabi Gelgado-Lopezや仮のドラマーとしてSabrinaも加入してきますが、彼女は1978年の2〜3月頃までしか在籍していません。このCharley's Girlは1977年10月にケルンの体育館で初ライブを行います。それで、1978年1月のライブでは、音楽雑誌Sounds誌のライターで、後にZickZackを運営することになるAlfred Hilsbergがライブの様子を観ています。バンドはその頃、Mittagspauseとも名乗るようになりますが、その年の夏頃から、ベースのStiefermannが、バンドから遠ざかるようになったので、バンドとしては彼を辞めさせ、残ったメンバー、Bielmeier, Hein, Oehlen, Delgado-Lopezで、心機一転、Mittagspauseとしてやり直すことになります。

Mittagspause ライブ風景

そうして、バンドは、1978年7月から、MittagspauseとしてDüsseldorfの有名なライブハウスRatinger Hof(ラティンガー・ホフ)でもライブをやり始めます。その後、1978年8月12には、ベルリンのクラブSO36で行われEröffnungsフェスにも出演しており、この時のライブ音源は同名のコンピレーション・アルバムに収録されています。しかしながら、Gabi Dergado-Lopezは、1978年12月26日にDüsseldorfのクラブDreieckstube (ドライエクシュトゥーべ)でのクリスマス・コンサートを最後にバンドを辞めます。そして、1979年初頭に、S.Y.P.H.に在籍していたThomas Schwebel (G)が加入し、ベースレスのバンドMittagspauseのメンバーと独自のサウンドが確立します。なので、Mittagspauseのメンバーは、Peter Hein (Vo), Franz Bielmeier (G), Thomas Schwebel (G), Markus Oehlen (Drs)となります。それで、1979 年6月に、彼等は、セルフタイトルの2枚組シングルを独レーベルPure Freude(プーレ・フロイデ)からリリースします(この作品は後に1枚のアルバムとして再発されています)。これに収録されている曲"Militürk"と"Ernstfall"は、後にFehlfarbenでも演奏されています。

Mittagspause 7inch2枚組(オリジナル・ジャケ)

同年10月には、シングル"Herrenreiter"c/w "Paff"がRondoからリリースされています。B面"Paff"は、独で最も有名な女優/歌手Marlene Dietrichの曲のカバーです。


Mittagspause single "Herrenreiter"

しかしながら、1979年12月31日に、Franz Bielmeierが企画した、Neuss地区のクラブOkie Dokieで開催されたRondo-Silvesterでのライブが最後となって、バンドは1980年初頭に解散しています。HeinとSchwebelは当時、サイドプロジェクトとしてやっていたFehlfarben (フェールファーベン)に活動の中心を移し、NDWバンドの代表として、そちらで大いに活躍するようになります。また、Mittagspause時代の曲"Militürk", "Herrenreiter", "Ernstfall"はFehlfarbenでも演奏されています。Bielmeierは、自身のレーベルRondoの運営に注力するようになり、Oehlenは、解散後ビジュアル・アーティストに転身しますが、時々、他のグループにゲスト参加しています。ただ、Mittagspauseは、その後のNDWの中ても各メンバーが活躍したこともあって、時々再評価されることがあり、1981年には、1979年11月10日にWippertalのクラブDie Börse(ディー・ベルゼ)でのライブ音源から成るライブアルバム"Punk Macht Dicken Arsch"がRondoから出ています。この時、BielmeierはBとG両方を担当。また、S.Y.P.H.やMaleの曲も演っており、そこがまたニクいです。


Mittagspause live album "Punk Macht Dicken Arsch" Seite A

それで、音的なことなのですが、正直、パンクと言うよりもポストパンクに近いようにも思えます。これは当時のUK/USのパンクの流れとは異なり、UK/USからの少ない情報で、自分達が妄想して作った「パンクロック」なのではないかな?と私は想像しています。先ず、曲自体は1〜2分の短いのですが、テンポはパンクにしては遅く、ベースレスで、メンバーに元S.Y.P.H.のSchwebelがいることも関係あるかも知れませんが、スカスカな独特の曲調です。そう言った意味では、先述のMaleとは大きく異なり、正に独逸独自のパンクと言えるかもしれません。あと、アルバムを出す予定もありましたが、この時のデモ音源は、1992年にWhat's So Funny Aboutからリリースされたセルフ・コンピレーション・アルバム"Herrenreiter"に全曲収録されています。

独逸パンク御三家と言えば、Der KFC (デァ・カーエフツェー)でしようか。Der KFCは、1978年半ばにDüsseldorfでTommi Stumpff (本名Thomas Peters)とTrini Trimpop (本名Klaus-Peter Trimpop)によって結成されています。

Der KFC 第1期

実は、Stumpffは、パリとブリュッセルで育っており、そこでギターのレッスンを受けていました。 一方、Trimpopは、1976年に独SauerlandからDüsseldorfに引っ越して、幼稚園の先生をやっていましたが、1977年にルームメイトの美大生Muschと共に30分のパンク短編映画「電撃バップ」を撮っています。その時に、彼はNYCに旅行して、Suicideのライブを体験。帰国して、彼等みたいな挑発的で妥協しないバンドを作ろうと決意します。StumpffとTrimpopの出会いは、元Charley's GirlのメンバーだったPeter Stiefermann主催のパーティで、その時にお互い意気投合し、バンドを結成することに。StumpffはDer KFCと言うバンド名を付け、その後、友人で医者の息子のPeter Hadamik (後にZonker Davidsonと名乗る)を紹介し、ベースを担当させています。一方、Trimpopの方も、医者の息子のTobias Brink (後にFritz Fotzeと名乗る)をドラマーとして引き込みます。取り敢えず、メンバーは揃ったので、その年の秋から、Muschのアパートの地下室でリハーサルを始めます。Trimpopは最初Sax担当でしたが、直ぐにヴォーカルにチェンジします。また、後から引き入れた2人は演奏に関してはゼロからの出発となります。最初のDer KFCのライブは、1978 年 11 月 30 日、ゲゼンキルヒェン地区のJazz & Art Gallery で、対バンにはS.Y.P.H., Mittagspause, Male等もいましたが、余りに態度が酷かった為、主催者に電源を落され、警察も呼ばれます。1979年初頭に、Devidson (B)はクビになり、代わりに16歳のKäpt’n Nuss (B; 本名Ferdinand Mackenthun)が加入して、同年2月16日にハンブルクでライブをやっています。Der KFCは、同年6月29日に、ハンブルクで、後にZickZackを運営するAlfred Hilsberg主催のIn die Zukunftフェスに出演、ここでは好感を持って、パンクバンドとして受け入れられます。

Der KFC live風景(恐らく第2期?)

この時に、Der KFCが主役の短編映画の話しが出たようですが、解散してしまい、ポシャっています。その後、1979年8月18日のライブで、Trimpopはバンドを脱退します。その後、Hansi (Vo)を入れてリハーサルを行っていますが、最終的は、Stumpffがヴォーカルも兼ねることになります。1979年11月24日に、MaleとZKと対バンしたフェスの後に、Der KFCは一旦、解散します。このフェスのライブ音源は、1979年にコンピレーション・アルバム"In die Zukunft"としてリリースされますが、Der KFCのオリジナル・メンバーでの演奏はこれに収録された3曲のみです。


V.A. compilation album "In die Zukunft"より、Der KFC "PVC"

その後、Käpt'n Nuss (B)が、Stumpffを説得して、1980年初頭に、Der KFCはリユニオンします。その際、20歳のMicki Matschkopf (本名Michael David Clauss)をギターで加入させ、Stumpffはヴォーカルに専念し、コンサートでは約150人も呼べるようになりますが、ライブの度に、暴力沙汰や警察沙汰が続き、Der KFCには「暴動」のイメージが付いてしまいます。またDüsseldorfでもバンド同士の軋轢の為、シーンから締め出されます。そう言うこともあってか、デモテープは全てのレーベルから拒否されます。結局、彼等は、独NeussのレーベルSchallmauer(シャルマウアー)と契約し、その傘下のレーベルPorno-Popからデビューシングル"Kriminalpogo" c/w "Sexmörder"を出しています。この時のメンバーは、Tommi Stumpff (Vo), Micki Matschkopf (G), Käpt'n Nuss (B), Fritz Fotze (Drs)です。

Der KFC 1st single "Kriminal Pogo" 上(表ジャケ), 下(裏ジャケ)

しかしながら、音質も悪く、ジャケ(特に裏ジャケ)が性差別とかで店頭売りがボイコットされたりしています。こう言う不買運動は、パンク初期、特にイギリスではThe Stranglersでも良くありましたね。また、彼等は、ファースト・アルバムの制作に際して、Conny Plankにプロデュースを頼もうとしましたが、結局、自分達で全部作ったアルバム"Letzte Hoffnung"を1982年にSchallmauerから出しています。

Der KFC 1st album "...lerzte Hoffnung"

このアルバムは最初の1年間で、30000枚を越える売り上げを上げましたが、ジャケにNSDAP(ナチスの前身政党)の選挙ポスターを使ったり、歌詞にもナチスのことを扱ったりと問題もありました(勿論、彼らは風刺として使っています)。ただ、音的には、単なるパンクだけでは無く、フラメンコやサイケ、高速ポゴ等多彩な音楽性を有しており、音楽雑誌のレコード評も概ね好評でした。確かに、音はベラベラですが、そこがまたパンクっぽくって、個人的には良いパンク・アルバムだと思います。


Der KFC 1st album "Letzte Hoffnung"より"Für Elli"

しかしながら、バンドの内情は険悪で、その為、リリース直後に、Micki Matschkopf (本名Michael David Clauss)とFritz Fotze (本名Tobias Brink)が脱退し、Nichts (後述)と言うバンドを始めます。ベースのKäpt'n Nussは、Xeo Seffcheque (クサオ・ゼフチェーク)のソロアルバム"Sehr Gut Kommt Sehr Gut"にゲスト参加したりしています。Käpt'n Nuss (B)は、Der KFCの存続の為、実兄でプロドラマーのReza Pahlevi (本名Rainer Mackenthun)を誘い、Stumpffは、再びギター/ヴォーカルを演奏して、バンドとして活動するようになります。そうして、今回は、Conny Plankのプロデュースの元、セカンド・シングル"Wer Hat Lilli Marleen Umgebracht?" c/w "Stille Tage In Ostberlin"を1981年5月にSchallmauerから出します。

Der KFC 2nd single "Wer Hat Lilli Marleen Umgebracht?" c/w "Stille Tage In Ostberlin"

この時、彼等は大手からのオファーを全て拒否しています。と同時に、Conny Plankのプロデュースで、セカンド・アルバムの録音もCanのInner Space Studioで始まり、また、Der KFCも地元を含んだ国内ツアーを敢行しています。そうして、1982年1月、KFCのセカンド・アルバム"Knülle im Politburo"がリリースされます。よりパワフルでプロフェッショナルなサウンドで、リズム隊に重心が置かれています。確かにヴォーカリゼーションやギターの刻み方はパンクの範疇なのですが、曲全体としては、UKパンクにもUSパンクにも似ておらず、やはり「これも独逸独特のパンクか!」と思ってしまいますね。それで、やはりと言うか、音楽誌の評価も低かったです。

Der KFC 2nd album "Knülle im Politburo"


Der KFC 2nd album "Knülle im Politburo"より"Flamme Empor"

そうした低評価を受けて、Stumpffは、1982年1月に、もうDer KFCについては語らないと実質的に解散宣言を出し、1982年4月8日に活動停止しています。

その後、2007年に、Stumpffは、自身の50歳の誕生日に一度だけDer KFCをリユニオンしたいと発表し、Käpt'n Nuss (B)の他に、地元のパンクバンドThe BullocksのHolger Hager (G)とMichael Stellmach (Drs)の協力とで古い曲とソロ曲での構成で行われました。また、2012年12月18日にも、好きなレコード祭りの一環として、Stumpff (Vo, G)とKäpt'n Nuss (B)は、Markus Boehlke (Drs)を誘って、セカンド・アルバム全曲を演奏しています。また、2015年には、Stumpffと言うバンド名の3ピースでライブを再開し、ギターに重きを置いたサウンドで、アルバム"Alles Idioten"も出していますが、その後、Tommi Stumpffは、癌で長い闘病生活の末に、2023年7月28日に地元で、65歳の若さで他界しています。

以上が独逸パンクの御三家なのですが、最後のDer KFCの解散後の各人の活動について、補足しておきます。

 先ず、先述のNichts (ニヒツ)は、元Der KFCのメンバーMicki Matschkopf (G; 本名Michael David Claus)とFritz Fotze (Drs; 本名Tobias Brink)が脱退後、その2年前にはディスコ・ダンスの国内チャンピオンになりかけたChristopher Scarbeck (B; 後のPaul Popperkind)を誘い、結成したパンク・バンドです。彼らは、シンガーも求めており、最初は、Liaisons DangereusesのKrishna Goineau(クリシュナ・ゴイニュー)を考えていましたが、最終的には、FotzeことBlinkのガールフレンドで、後に妻になるAndrea Mothes (Vo; 後のPrunella Pustekuchen)に決まりました。コアメンバーの2人は、NDWより前に、自分達独自のスタイルに拘っていました。バンド名は、MatschkopfことClausが、コーンブランドのボトルを見て、そこに書いてあった文字を見て決めたとか。それで、Derendorf文化会館のリハーサル室でわずか 2 週間で録音をまとめ、 2週間後、わずか4日間のスタジオで出来上がったファースト・アルバム(後述)を1981年に出しています。このアルバムは本当に急ピッチで制作され、場合によっては、ClausとBlinkは未発表曲のギターとドラムを使っており、また未発表だったDer KFCの作品"Hotel Arosa"のギター・リフとドラムなどに、独自の新しい歌詞も付けて曲として仕上げています。1981年3月には早くもNichtsのラインナップが公式に発表され、大体8〜9曲入りのデモテープが作られていてます。これには、予期せぬ反響を呼び、Düsseldorfの自主レーベルSchaumauerが1981年6月に"Made in Eile(急いで作った)"というタイトルでファースト・アルバムとしてリリースしています。


Nichts 1st album "Made In Eile"より"Scheiße"

音楽プレスには、このアルバムは好意的に受け取られています。特に、"Radio"と言う曲はキャッチーだったので、バンドとレーベルSchaumauerは、大手のCBSでの放送に合わせて、シングルカットをリリースすることにしています。この放送で、アルバム"Nichts"は全米でも知られるようになり、1ヶ月でシングルは7000枚、アルバムは20000枚も売れた為、Schaumeuerでは扱えなくなり、結局、流通には大手のWEAを使うことになります。Nichtsの方は1981年11月中旬〜12月上旬まで国内ツアーをしていましたが、その後、直ぐに、セカンド・アルバムの録音に入ります。5社からのオファーがありましたが、結局、WEAと契約しています。彼等のセカンド・アルバム"Tango 2000"も売れ行きも好調で、音楽誌の評も良かったようですが、Spex等のインディーズ音楽雑誌では余り評価は高くなったとか。


Nichts 2nd album "Tango 2000"より"Tango 2000"

彼等は、1982年2月10日から国内ツアーを敢行していますが、チケットはどこも完売でした。この頃から、NDWが台頭してきて、IdealやDAF, Neonbabiesの活動は、音楽界だけではなく、社会現象にまで広がります。そうして、Nichtsは、1982年にシングル"Licht Aus"をリリースし、またもやロックやポップスでの独逸語の歌詞についての論争が起こってしまいます。その後、同年6月には、シングルカットされた曲"Tango 2000"がリリースされますが、これはバンド最大の商業的成功となっています。しかしながら、バンド側は、1982年の夏に、ツアー等による疲弊で活動休止を宣言、MatschkopfことClausはソロ活動の為、Nichtsを脱退します。残ったAndrea Mothes (Vo)とTobias Brink (Drs)は、Bertha & FriendsのStephen Keusch (G)とPeter Szmanneck (B, Synth)を加入させて、バンドを持続させ、新録のサード・アルバム"Aus Dem Jenseits"を急ピッチで制作し、1983年1月にリリースしましたが、商業的には成功とは言えませんでした。


Nichts 3rd album "Aus Dem Jenseitsより、"Horrorskop"

またその後、1983年に予定されていたツアー前にBlinkが怪我を負った為、ツアーは中止になり、それでバンドの方も解散になります。個人的には、サード・アルバムは、シンセも入っており、それでいてパンキッシュな曲も多く、中々、捨て難いアルバムだとは思いますが、もはや、パンクでは無く、ニューウェーブとかに近いかも。そこら辺で評価されなかったのかな?と思うと、ちょっと残念ですね。

それから、Der KFCの解散後、独自路線で活動を進めたのが、Tommi Stumpffです。

Tommi Stumpff

実は、コンピューターサイエンスを学び、訓練を受けたプログラマーだったStumpffは、電子音楽への関心がますます高まり、Der KFC内で絶えず妥協せざるを得なかったようでした。つまり、Der KFCにもシンセや打ち込みを入れたかったのですが、メンバーにいつも反対されていました。しかし、彼は既に1981 年 10 月に電子音楽アルバムを制作したいと発表しており、1982 年 1 月には、ベースのKäpt'n Nussの協力を得てクラングヴェルクシュタットのスタジオで、シンガーSilvia Nemanicとの共作アルバム"Silvia"の全曲を書き上げ、録音しています。 このアルバムは1982年半ばにリリースされますが、色んな意味で大失敗でした。

Silvia Nemanic album "Silvia"

それで、Tommi Stumpffと言うソロ名義で、1982年の夏にクラングヴェルクシュタットのスタジオで制作された彼のファースト・ソロ・アルバムが、"Zu Spät ihr Scheisser. Hier Ist: Tommi Stumpff"です。Schaumauerから1982年にリリースされています。このアルバムは、StumpffがVo, Synth, G, Programmingを全て一人でやっており、音楽誌でも好評でした。


Tommi Stumpff 1st album "Zu Spät ihr Scheisser. Hier Ist: Tommi Stumpff"より、"Crêve Petit Con"

その後、1983年には、Conny Plankと共同プロデュースで、新レーベルGiftplattenから12インチ・シングル"Mich Kriegt Ihr Nicht"c/w "Contergan Punk"(これのジャケ写はめっちゃカッコ良い!)がリリースされ、一貫してデビュー・ソロアルバムのエレクトロ・パンク・サウンドを継続していました。しかしながら、サウンドはよりハードになり、攻撃的なサウンドだったことで、EBM (Electronic Body Music)とされています。個人的には、彼のソロアルバムは、エレクトロ・パンクと認識しています。

Tommi Stumpff single "Mich Kriegt Ihr Nicht"c/w "Contergan Punk"

その後、セカンド・ソロアルバム"Terror II"を1988年に、サード・ソロアルバム"Ultra"を1989年にリリースし、特に後者は、打ち込みにDietmar A. MaieとUli Strasserも加えて作製されており、現在でも傑出した作品として評価されています。


Tommi Srumpff 2nd album "Terror II"より"Eliminator"

Tommi Stumpff 3rd album "Ultra"

その後、彼は、1993年に5枚目のソロアルバム"Alle Sind Tod!"をEMIからリリースし、これをもって、彼は音楽活動を終了し、以後IT 業界で働いています。


Stumpff album "Alles Idioten"より"Geh Sterben"

2007年には、Tommi Stumpffは再びリハーサルを始めますが、これは先述の彼の50歳の誕生パーティーの為です。

その他に、ZK (ツッカー)と言うバンドも独パンクバンドとして、名前を聞くことがあります。ZKもやはり、1978年11月に、Düsseldorfで、Campino (Vo; 本名Andreas Joachim Wolfgang Konrad Frege), Ralf Isbert (B), Claus Fabian (Drs)らによって結成されたパンクバンドで、1979年4月に、カールストのHolzbüttgen地区の教会で初ライブを行っています。ただ、ギタリストが安定せず、1980年末にAndreas von Holst (G)になって漸く安定しました。

ZK


バンドは、当初、パンクロックを演奏していましたが、次第にポップミュージックとロカビリーを融合させた音楽を演るようになっていきますが、噂では、彼等のチンピラ度は群を抜いて高かったとか。歌詞は割とバカバカしい内容でユーモラスなもののようです。

ZK 1st single "Tip Von Twinky" c/w "S.O.S."

ZK 2nd singleより"Schwarze Stiefel"


1979年にファースト・シングル"Tip Von Twinky" c/w "S.O.S."が、1980年にセカンド・シングル"Das Grauen Geht Auf Große Fahrt"が、Rondoからリリースされていますが、音的な面も含めて、Toy DollsとかCaptain Sensibleの「おふざけ」みたいなパンクと言う印象です。その後、1981年に、唯一のアルバム"Eddie's Salon"がRondoから出ますが、内容はバカバカしい限りの雑多な曲が収録されており、ある意味「パンク」だなぁと思います。ただ、硬派な音楽ではありません。


ZK album "Eddie's Salon"より"Teddie's Stadt"

しかしながら、1982年11月21日に独NeussのクラブOkie Dokieでのライブを最後に解散しています。その後、最後のライブ音源から成るライブアルバム"Leichen Pflasterten Ihren Weg"がTotenkopfからリリースされています。

それで、ZKの内、Campino (Vo), Andreas von Horst (G)、それにローディのAndreas Meurer (B)は、新らたに、パンクバンドDie Toten Hosen (ディー・トーテン・ホーゼン)を結成し、Michael Breitkoph (G), Trini Trimpop (Drs), Walter NovemberことWalter Hartung (G), Jochen Hülder (マネージャー)を誘っています。一方、ZKのClaus Fabian (Drs)は、Die Mimmi's (ディー・ミミーズ)を結成し、1982年からは、ブレーメンでパンク・レーベルWeser Labelを運営しています。残ったRalf Isbert (B)は、ロカビリーバンドDie Panhandle Alks(ディー・パンハンドレ・アルクス)を結成しています。

この中で、NDWに関与し、重要なバンドとしてDie Toten Hosenについて、ちょっとだけ深掘りしていきます。

Die Toten Hosen


Die Toten Hosen 1st Single B面"Jürgen Engler's Party"

Die Toten Hosenは、1982年、自身のレーベルTotenKopf (トーテンコッフ)からファースト・シングル"Wir Sind Bereit" c/w "Jürgen Engler's Party (この曲はMaleのEnglerがメジャーに行ったことを揶揄している。これに対してMaleもほぼほぼ同じデザインのシングルを出してやり返しています)"、セカンド・シングル"Reisefieber" c/w "Niemandsland"を立て続けに出し、「Roswithaは来ない、でもDie Toten Hosenはやって来る」をモットーに精力的にライブやツアーをこなしています。しかし、この時期に、Walter Novemberは薬物問題の為、脱退しています。1983年には、ベルリンであるプロテスタントの救世主教会の敷地内で東独のパンクバンドPlanlos (プランロス)と無許可のライブを行ったり、1988年にも東ベルリンのホープ教会で、東独バンドDie Vision(ディ・フィジオーン)と非公式なライブをやったりしています。その後、1983年にサード・シングル"Armee Der Verlierer" / "Eisgekühlter Bommerlunder" / "Opel Gang"は、彼等にとって最初の成功で、同年にファースト・アルバム"Opel-Gang"を自身のレーベルTotenkopfからリリースしています。音的には、かなりしっかりした重厚な音で、聴き応えも充分です。ここには、ちょっと意外な面を見せてくれています。それで、1983年7月に、彼らは大手EMIと契約しています。


Die Toten Hose 1st album "Opel-Gang"より、"Reisefieber"

この時に作製された"Eisgekühlter Bommerlunder"のMVは、EMIから資金提供受けていましたが、権利の問題で、独逸公共TVでは長い間ボイコットされています。

Die Toten Hosen  "Eisgekühlter Bommerlunder" MV

EMIから、NYのラッパーFab 5 Freddy共に"Eisgekühlter Bommerlunder"のヒップポップ・ヴァージョンのシングルもリリースしています。

The Increadinle T. H. Scratchers Srarring Freddy Love single "Hip-Hop Bommi-Bop"

1984年春にはフランスへ行き、また、同年6月には、BBCのJohn Peel Sessionに出演する為にイギリスに行きますが、旅費や著作権の問題でEMIとの契約は撤回され、バンドはVirgin Recordsに移籍します。まあ、そこからは、商業的にも成功し、多数のシングルやアルバムをVirgin Recordsや自身の新レーベルJochens Kleine Olattenfirma (JKP)から出しており、中には、18枚組CDボックス"Jubiläumseditionbox"や30枚組LPボックス"Vinylbox"なんてセルフ・コンピレーションもあります。

Die Toten Hosen album "Alles aus Liebe: 40 Years of Die Toten Hosen"

それで、2022年5月27日、彼等は、結成40周年記念アルバム4枚組LP/2枚組CD "Alles aus Liebe: 40 Years of Die Toten Hosen"をリリースして、結成40周年記念ツアーを発表して、2022年6月から9月の間に、独逸、オーストリア、スイスで19回の公演を行っています。そう考えると、多分、Die Toten Hosenが独逸パンクの中で、最も成功したバンドと言えるでしよう。

それから、最初期の独逸パンクとして、忘れたはいけないバンドがもう一つあります。それが、1977年に、ハノーファーで結成されたRotzkotz (ロッツコッツ)です。

Rotzkotz

コアメンバーは、Horst Illing (G, Vo)とErnst-August Wehmer (Vo)で、結成当初にいたDieter Runge (G)は、1977年に早々と脱退し、NYCに渡り、New York Niggersに加入しています。また、Uli Scheibner (B)とPeter Koehler (Drs)は1979年に脱退し、代わりにMarkus Joseph (Drs)とAxel Wicke (B)が1980年に加入、更にGregor Ludewig (Piano)も1980年に加入しています。彼等は、最初は英語の歌詞で、UKパンクっぽいサウンドで活動しており、その関係か、彼等のファースト・アルバム"Much Funny (Vorsicht! Paranoia)"は、1979年にUK録音で、リリースされています。このアルバムが独逸初の自主制作レコードと呼ばれています。

Rotzkotz 1st album "Much Funny"


Rotzkotz 1st album "Much Funny"より"Disco Sound Is Dead"

その後1980年中期に、彼等は、大手EMIと契約を結び、同年、シングル"Kein Problem/Problem"を出していますが、どうも、EMI側が勝手に何か加工したらしく、バンドは、Jubel 81ツアー後、EMIとは解約します。

Rotzkotz single "Kein Problem"

それで、インディーズに戻った彼等は、今度は独逸語に拘り、1981年にNo Fun Recordsより、セカンド・アルバム"Lebensfroh + Farbenfroh – The most beautiful German songs from Rotzkotz"をリリースします。


Rotzkotz 2nd album "Lebensfroh + Farbenfroh"より"Tante EMI"

このセカンド・アルバムでは、音楽性が、Markus Josephによるシンセやピアノも入って、パワーポップ調と言うかニューウェーブ調に大きく変わっており、また、歌詞にダダイストのKrut Schwittersのテキストを用いて、音楽を付けたりしており、メンバー間で、バンドの方向性について口論され、それが原因で、バンドは1982年に解散することになっています。解散後、Horst Illingは、NDW界で、シンセ・ポップ・バンドBizarre Leidenschaft(ビツァーレ・ライデンシャフト)を結成し、1枚のアルバム"Geheimnis"を出しています。

Bizarre Leidenschaft 1st album "Geheimnis"

また、Illingは、Ernst-August Wehmerとも時々、共演していますが、Wehmerは、2024年1月に他界しています。もう一人のギタリストDieter Rungeは先述のようにNYCへ渡米していますが、今はフリーのアーティストとしてハワイに住んでおり、Dieter Osten名義で音楽もやっています。その後、ファースト・アルバム収録の"Gettin' To None"の独逸語ヴァージョンと新録カバーも行われ、メンバーだったMarkus JosephやDer Moderne ManのE.K.T.を含むBeatklubと言うバンドは、Rotzkotzのファースト・アルバムに収録されている曲"Schatten der Vergangenheit"のフランス語ヴァージョン"Chien D'Amour"を収めたマキシ・シングルを"Down At The Beatklub At The Midnight"として、Zick Zackから1985年に出しています。

Beatklub "Down At The Beatklub At The Midnight" Maxi-Single

このRotzkotzも重要なバンドなのですが、その活動期間が短いのと、UK寄りのパンクから、大きくサウンドが変化したりで、実態が掴みにくかった感じもします。ただ、やはり独逸国内では評価は高いのかもしれませんね。

と言う訳で、NDW最初期に関連したパンクバンド等をご紹介しましたが、まだ、このドイツ・パンクについては紹介したいこともあるので、それは「その2」で!

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Dr K2

ノイズ歴約40年のDr.K2が今まで聴いてきた音楽(主に地下音楽)を出来るだけアナログ縛りで紹介していきます。ご興味のある方はどうぞご自由に観て聴いていって下さい。アングラのコンサルジュ。

twitter:@k2kinky

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