独逸発EBMの原型、 Liaisons Dangereusesとその前後。

初版 2024/05/04 07:49

改訂 2024/05/04 07:49

M_Sessionとそれに関する女性バンドのことは、以前に書きましたが、そこでちょっと触れたLiaisons Dangereuses (仏語なので、「リエゾン・ダンジュルーズ」と呼ぶようです。直訳すると「危険な関係」)について、深掘りしてみたいと思います。

Liaisons Dangereuses

その前に、CH-BBと言うデュオについて。その名の通り、初期DAFに在籍していたChrislo Haas (クリスロ・ハース)とMania D.のメンバーでもあったBearte Bartel (ベアルテ・バルテル)から成るデュオなのですが、多分、公式の音源は、10分カセット作品4本(それぞれ、黒、赤、青、銀と言う素っ気ないジャケでした)だけです。


CH-BB カセットより"Metall"

当時、Rock Magazineでそれらのカセット作品を見て、欲しくて欲しくて堪らなかった記憶があります。内容はハード・エレクトロニクスとのことですが、何せ、発売当時よりそれぞれ50本限定であり、今では、殆どの市場に出回らず、過去、何回かブートレッグが出た程の貴重なブツです。そんな中に、スリランカ生まれの仏独ハーフで、1978年にはスペインでポストパンク・バンドXeeroxをやっており、1981年にDüsseldorfに移住してきたKrishna Goineau (クリシュナ・ゴイニュー)をヴォーカルに迎えての録音もあり、自然とその3人が、Liaisons Dangereusesとなります。それが、1981年です。

Berate BartelとKorgのシンセ&シーケンサー

それで、以前にもちょこっと書きましたが、Haasは、DAFに在籍していた頃、Pyrolator (Kurt Dahlke)のシンセKorg MS-20とKorgのシーケンサーSQ-10に取り憑かれており、それにKorgのシンセMS-50を加えたセットを毎日のように弄り回しては、気に入った音を無造作に録音をしていたそうで、恐らく、そう言ったシンセ偏執狂的な性格がDAF脱退以降も続いていたと思われます。一方、BartelもMania D.で培ったBやシンセの演奏にどっぷりハマっていたと思われます。彼等は、1981年に、オランダのRoadrunner Recordsより、シングル"Los Niños Del Parque"を、自分達の手でセルフ・プロデュースしてリリースしており、このシングルは以降も何度か再発されています(この曲なんかは、独逸語では無く、スペイン語で歌われています)が、近年の再発盤のジャケは、その後に出たアルバムと同じジャケになっており、一見区別が付かないです。

Liaisons Dangereuses シングル"Los Niños Del Parque"(オリジナルジャケ)

その後、ケルンのConny Plankのスタジオで、Plankのミックスでセルフタイトルのアルバムを作り上げ、独TISよりリリースしています。このアルバムは、ステップ・シークエンスを用いており、独逸のEBM (Electronic Body Music)の原型となり、また、後のシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノに多大な影響を与えた傑作となります。

Liaisons Dangereuses album "s/t"

彼等は1981-1982年の間、盛んにライブも行っていますが、時には、オーストラリア人のAnita Laneや日本人の佐々木秀人氏も加わることもあったようです(Krishna Goineauがどん兵衛のシャツ着て、歌っているライブ動画は有名ですよね!)。また、彼等が当時から特異だったのは、グループ名は仏語、メンバーは独逸在住、歌詞は西語&仏語と言った風にハイブリッドだったことです。


live "Los Niños Del Parque"


 Liaisons Denagereuses album "s/t"より、"Etre Assis Ou Danser"

また、彼等は、Sven Van Heesがホストを務めていたベルギーのAntwerp SISラジオが放送していた地下ダンスミュージックや「電子」音楽を流す番組にも影響を与え、1980年代後半のニュービート(ベルギーで1980年代末に起こったEBMやハイ・エナジーやアシッド・ハウス等のエレクトロニック・ダンス・ミュージックの総称)の勃興にも寄与したとされています。ただ、残念なことに、彼等は、1982年で活動を終えていますが、何故、彼等が解散したのかについての記述は無かったです。

その後、Haasは、Minus Delta T (ミーヌス・デルタ・T; 1978年結成で、1980年には、Mike Hentz, Karl Dudesek, Bernhard Müllerによって結成され、5.5トンの巨岩をイギリスからバンコクまで運び、その途中でのフィールド録音を使った「新しい」エスノ音楽を作る計画、"バンコクプロジェクト"を行い、実際、独ATA TAKからレコードも出ています)やCrime & The City Solution(1977年にSimon Bonneyが中心になって結成されたオーストラリアのブルース系ポストパンク・バンドで1979年に一度解散し、1985年にリユニオンされ、Haasは、1987年-1991年の間、Einstrützende NeubautenのAlexander Hacke (G)と共に、シンセ奏者として在籍しています。その後、バンドはUSデトロイトで再度リユニオンし、現在も活動しています)に加わって音楽活動を続け、1998年に、Chrislo名義で2枚組ソロアルバム"Low"を出していますが、アル中が祟って、2004年10月に47歳の若さで亡くなっています。彼の遍歴に関しては、Jürgen Teipel著のNDW本"Verschwende Deine Jugend (Waste Your Youth)"に詳細は記されています。


Chrislo album "Low"より"Glomelo"

Jürgen Teipel著"Verschwende Deine Jugend"

一方、Bartelは、以前書いたように、1984年頃にGudrun GutとBettina Kösterと共に、Matadorを結成して、1990年代初頭まで活動し、その後はソロで活動しています。また、ヴォーカルのGoineauは、グループ解散後、シャドウ・ボクシングを学びに台湾に行きますが、その後、ベルギーのBrusselで、1985年からはMetropaktのメンバーとして、1987年以降はLineas AereasのJordi GuberとVelodromeと言うグループで、Vo/Kbdを担当しています。その後、彼は、フランスのNarbonne大でジャス・ギターを学んで、スペインのBarcelonaでVictor Solと共に1998年まで録音をしており、2002年辺りでは、カリブ界隈に住んでいたらしいです。その後、南仏でペインティングに熱中し、2007年/2008年では、海岸近くの家で、アナログのモジュラー・シンセとPCで一連の録音をしていましたが、独逸のレーベルBureau Bがやっとのことで、彼の音源を集めて、唯一のソロ・アルバム"I Need A Slow"をリリースしています(意外と彼が一番波瀾万丈な人生を送っていますね)。

Krishna Goineau album "I Need A Slow"

そんな訳で、とにかくクールでカッコ良い女性シンセ奏者Bartelとシンセ偏執狂で如何にもなHaas、それにスパニッシュで暑苦しく歌うGoineauの奏でた、たった2年間の活動及びシングル1枚&アルバム1枚と言う最小限のリリースから受けた衝撃は、その後のEBMや他のエレクトロニック・ダンス・ミュージックに大いに影響したと言う訳です。Liaisons Dangereusesは、我々に、如何にファースト・インパクトを持ってリリースするか、またそのタイミングが時代にピッタリ合えさえすれば、少ない音源でも時代に確実に爪跡を残せることを教えてくれたグループだったのです。それにしても、Haasの膨大な音源素材はいつか、纏めて聴ける機会が欲しいですね。

そう言えば、最近、CH-BBの音源を含むスプリット・シングル"Vidal Benjamin Presents: Uprooted #1 Bladimir Ivkovic"(下写真)がリリースされていますが、こちらはオフィシャルなアイテムで、CH-BBの貴重な音楽を聴くことができます。


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Dr K2

ノイズ歴約40年のDr.K2が今まで聴いてきた音楽(主に地下音楽)を出来るだけアナログ縛りで紹介していきます。ご興味のある方はどうぞご自由に観て聴いていって下さい。アングラのコンサルジュ。

twitter:@k2kinky

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