銅の話(その1)
初版 2025/02/01 20:39
改訂 2025/02/05 21:32
石泉亭の鉱石標本には銅鉱石が多く含まれています。人類による銅の使用には少なくとも1万年の歴史があり、日本でも弥生時代~古墳時代、特に紀元前2世紀以降の遺跡から銅剣、銅鉾、 銅鏡、銅鐸等の青銅器が多数見つかっていますが、これらは朝鮮半島や中国大陸から入手した製品または製品原料を基にしたものと考えられています。
日本の国産銅に関しては、文武天皇治世下の698年3月に因幡国(現在の鳥取県東部)から銅鉱が朝廷に献じられたと『続日本記』にあるのが最初の記録で、その後708年(慶雲5年)には武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市黒谷)から、和銅(にぎあかがね)と呼ばれる銅塊が発見され朝廷に献上され、これを祝って年号が慶雲から和銅に改められるとともに、「和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)」という銅銭が鋳造されました。
(写真は埼玉県秩父鉱山の黄銅鉱)
ちなみに私の学生時代にはこの和同開珎を日本最古の鋳造銭と習いましたが、1998年(平成10年)に文武天皇の祖父にあたる天武天皇の都である飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)が置かれていた奈良県明日香村の飛鳥池工房遺跡から「富本銭(ふほんせん)」の未製品が大量に出土し、『日本書紀』の683年(天武天皇12年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることも踏まえ、現在ではこの「富本銭」が日本最古の鋳造銭とされています。これは上に述べた因幡国から朝廷に初めて銅が献上されるよりも前の話ですので、富本銭の原料は朝鮮半島か中国大陸からもたらされたものである可能性が高いと思います。
いわゆる「奈良の大仏様」(東大寺毘盧遮那仏像)は、文武天皇の第一皇子であった聖武天皇が743年(天平15年)に造立の詔を発し、752年(天平勝宝4年)に完成しましたが、その鋳造には山口県の長登銅山およびその近隣の鉱山から産出した銅が用いられたと考えられています。現地では長登(ながのぼり)の地名は奈良に大仏鋳造用の銅を献上(奈良上り)したことにちなむと言い伝えられていましたが、1988年(昭和63年)に奈良県立橿原考古学研究所が東大寺大仏殿廻廊の西隣で調査を行い大仏造立に関連する大量の遺物を発掘し、溶解炉片に付着していた金属の成分が長登銅山跡から出土したスラグと成分が良く一致することを解明、これにより長登銅山の産銅が大仏鋳造に用いられたことが証明されました。
(写真は山口県長登銅山産の輝コバルト鉱/黄銅鉱)
長登銅山と大仏建立の関係は、作家帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)による小説「国銅(こくどう)」(新潮文庫)に、銅鉱石の採掘から大仏鋳造まで使役された若者の姿を通じて壮大かつ克明に描かれており、お薦めの作品です。
