IN A LANDSCAPE
初版 2023/08/20 14:00
改訂 2023/08/20 14:00
ジョン・ケージ/in a Landscape『風景にて?』
音楽を再生しながら読んで下され。
メシアンや武満の流れとは全く異なる現代音楽の異才として世に言う『実験音楽』の旗手。もっとも、本人は『自分の音楽は創作の帰結であって前提となる実験ではない』と最初の頃は本にも書いていたけれど、創作活動の途中では考え方が変わってきて、自身の音楽的興味の対象をさす言葉として受容しているようだ。
ただ、彼の音楽分野での創作の中で1948年頃はまだ『音』というものの捉え方が『楽』と結びついていて音と無音の微妙な交錯の中に瞑想的な風景を決められた流れの中で感じることができる。
それは捉えようによっては優しく、叙情的である。
これが1952年のピアノのための『4分33秒』辺りになると音楽は別にピアノでなくてもよくなって演奏者は対面する楽器を弾かない事によって『その楽器が演奏されるとされている時間』という枠のなかで、聴衆の立てる物音、ホールの外の鳥のさえずりや車の騒音、そういう風景の中の『音を聴く』という『楽』から離れた場所で偶然性と結びつく状況芸術に移行してくる。
この作品はそこまで行かないけれど、どこで切れてもいいようなフレーズが単調な響鳴の中にゆったりと続いてゆく。
不可思議な感覚ではなく、ボクらが知っているピアノの音が鳴り、その音そのものを美しいと感じたり、ロマンティックであると感じたりすることができる沈黙のゆとりが、響いた音の後に必ず用意されていて、ボクらは振り返りながら次の音と前の音がどれだけ違う音色なのか感じる。
でも、それはあたかも音の構築した印象的な景色を眺めるように聴くのではなく、景色の中の同じ場所に佇んで足許の自分の影の伸縮や木漏れ日が頬に当たる角度や陽の光の温もりを感じる腕や足や頭という体のいろんな部分の移ろいのよって時間の経過を感じるように鳴らされている音を聴くことが望まれているようだ。
その意味で『風景にて』という邦題は正しくなくて、『風景の中で』とするべきなのかも知れない。
ジョン・ケージが創作した音を使ったパフォーマンスを音楽といえるかどうか、初期の頃から疑問視していた演奏家や評論家も多い。
でも、少なくても、ジョン・ケージの1940年代はまだボクには音楽として『楽』から抜けだす前の彼のスタンスを聴くことができるような気がしている
Mineosaurus
古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。
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