回想とオマージュ

初版 2024/10/27 14:29

改訂 2024/10/27 14:38

モーツァルト/弦楽五重奏曲第6番変ホ長調K614

第1楽章 アレグロ ディモルト(一層強く)

第2楽章 アンダンテ

第3楽章 メヌエット:アレグレット

第4楽章 アレグロ

この第6番はモーツァルトが作曲した最後の弦楽五重奏曲。

モーツァルト死の8か月前1791年4月12日の作品と言われる。器楽曲としてはこの曲は最後から二番目の作品。現在器楽曲として最後と言われるのはあの器楽曲は、『クラリネット協奏曲イ長調K.622』です。

この弦楽五重奏曲は第5番と同じくハンガリーのヴァイオリニストヨハン・トストの依頼によるものだということです。

もう、この頃のモーツァルトは生活の困窮の極みにあり、長年の不健康がたたったか健康も害していたはずだけれど、彼はそういう人生のしがらみがあまり音楽の出来に影響を与えないタイプのような気がする。

ハイドンは若い時から晩年まで常に彼の心の無意識の部分にあったように思える。またこの弦楽五重奏曲という分野についても、先人の作品があったからこそのスタイルの確立だったのではないか。

17歳の作曲の第1番からこの最晩年の6番まで全て充実している。

この曲には全体通じてハイドンのイデオムが様々な形で折り込まれているように感じる。それは、例えばブルックナーがワグナーに自作を献呈するとき彼の楽曲の主題を意識的に使用し、自身の敬意を相手に示すような作為的なものではない。ハイドンは彼より少し長く生きたが、決してハイドンの方を向いて作曲したものではないのではないか。作為も媚もない純粋音楽が流れている。それでも簡潔でハイドンの作品に聴かれる音形が明滅していることは確かだ。無意識のハイドンとの邂逅とオマージュがこの曲の随所に感じられる。

その第1楽章、

第1主題の旋律の繰り返しはハイドンの弦楽四重奏曲第36番の『鳥』の第2主題にのように小鳥が跳ねるようなリズムはないけれど、ヴァイオリンとヴィオラの掛け合いが丁寧で、似ているといわれる。聴き比べるとテンポも含めてよく似ているね。彼の引き出しにはハイドンがたくさん入っている。特に軽快な部分は彼の波長に合っているんだと思う。

ボクは予定調和的なハイドンの音楽はあまり聴かないけれど、素人だから演歌っぽい疾風怒濤期のロマンティシズムは好きだ。モーツアルトはその辺で情緒的な部分じゃないところに魅かれる部分があったんだろうね。

第2楽章もハイドンぽい。彼のナハトムジーク(夜曲)のなかにも似たような恩恵があるけど、どっちが先だかようわからん。聴き込むと緻密で弾く方が乗りそうな音楽。

第3楽章 は極めて簡潔で、明るく伸び伸びとしたメヌエット。優雅さと簡明さ。

ご婦人がスカートの裾を摘まんで優雅にステップを踏むような舞曲としてのリズムを想起させる。

依頼の内容に従ったものか、この最晩年に書く音楽としてはあまりにも軽々としていて明るい。

終楽章の主題にはハイドンがでんと居座っている。生き生きとした音楽に通奏の少し上をヴァイオリンが流れていく。

しかし、展開部はいくつもの声部が複雑に呼吸をするように、縒り合された厚い旋律の流れが対位していて、うとうとしていた心が突然素晴らしい音の構築の中に投げ込まれる。この楽器間のやり取りが素晴らしい!

なんか本人は『これが弦楽合奏の終わりの曲』なんて意識はこれっぽっちもなかったみたい。

回想とオマージュッてタイトルにしたけど、回想しなくてもハイドンは彼の中に染みついてるんだね。

最終楽章の展開部は和声の重なりを楽器間で感じる聴きもの。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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