死のうた

初版 2024/05/03 09:22

改訂 2024/05/03 09:25

ショパン/ピアノソナタ第2番変ロ短調op.35

第1楽章 グラーヴェ:ドッピオ・モヴィメント(変ロ短調-変ロ長調)
第2楽章 スケルツォ (変ホ短調-変ト長調)
第3楽章 マルチア・フュネーブレ=葬送行進曲レント(変ロ短調)
第4楽章 フィナーレ:プレスト(変ロ短調)

何度か記事にしかけてはやめた。
ひょっとして以前書いたかなとも思ったりするけれど、いろんな人のCDを引っ張り出して聴く度に『ああ、まだ書けない』とか思ってお蔵入りになる。
最近いろんな作曲家の葬送行進曲を聴いていて(なんちゅう趣味かね。)ふと感じたことがあって、ジジイの直前記憶はティラノサウルス並みに短いので忘れないうちに書いておこうと思った。
ベートーヴェンの第3交響曲の葬送行進曲を聴いていると様々な作曲家への影響がいろんなところから聴き取れて興味深かい。
それはまさに棺を担いだ葬列を想起させる重い足取りが、俯いたままの熱いパトスを抑え込んで進むような音楽で、その列に加わる人の両手は胸で合わさっているのではなく、体の外につよく握りしめられていて、悲痛よりもっと大きなエネルギーを孕んでいるように聞こえる。
交響曲第7番のものともまた違った感じがするのですが、確かに行進はゆっくりと人間のペースで進んでいます。

チャイコフスキーの『偉大な芸術家の思い出』というピアノトリオは、もう手も心も置きどころが無くなった慟哭と悲痛と滂沱の涙に唯々あふれかえった音楽です。

行進曲なんてとんでもない。歩いてなんかいられない、アントン・ルビンシュタインの『A] の音を聞いただけで、その思い出に涙がぶわっと溢れだす感じ。そんな第1楽章。


ショパンのこのソナタの第3楽章は他のどの行進曲と比べても異様な感じがするのです。
何というか、棺の重さのない『死の足音』とでもいうのかな。
アントン・ルビンシティンは『死のうた』と評したそうです。
つまり死者を弔うために荘重な行列が、死せる人の魂が天かあるいは地に行ってしまって抜け落ちた肉体だけの重さの棺を抱え、粛々と進んでいるのではなく、
『死』そのものを司る神の後を死者の魂が長蛇の列を作って行進しているようなイメージがあるのです。
途中に優しげな変ニ長調のトリオが慰めのように葬列を慰撫して行くけれど、重い鐘の音が次第に近づき離れて消えてゆくまで行進しているのは人ではない何かのようです。
喩えていえば棺を抱えた人々の悲しみの行列の隣をふらふらと並行する魂達の行列。
ショパンがピアノに込めたのは後者の情景のような気がしてならないのです。
『無駄口』と自ら表現した調性すら朧気になった無窮動のフィナーレは、肉体の埋葬にたどり着いた魂が安堵して高みに登る音楽でしょうかね。
音楽的というよりもきわめて情緒的に感じた風景がボクのこの曲のイメージを固めてしまっています。
第3楽章に関してはこのイメージに合う演奏はラフマニノフと彼の信奉者ミケランジェリ、そしてアルゲリッチでした。

ただ、ミケランジェリの演奏、1959年のロンドンライブ。この曲の第1楽章の演奏から葬送の音楽が始まります。異様な入り方です。彼の葬送はその最初の和音の暗さからストーリィを展開します。『葬送行進曲付き』ではなく、第2番全体で『葬送』という捉え方なのでしょうね。

第2番の部分は27分辺りまでです。このビデオは当日のライブの全曲を収録していてちと長い。本人が公開することを了解した演奏はさすがに息が抜けない宝物ではあるのですが、お腹いっぱいになります。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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