セリオーソに思うこと

初版 2024/04/03 17:00

改訂 2024/04/03 23:36

何と言うことか!1時間くらい時間を使って書き上げた文章がアップロードしたらすべて消えていた!

同じ文章を書くのはしんどい……………

気を取り直して

ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番ヘ短調 作品95 『セリオーソ』

第1楽章  アレグロ コンブリオ

第2楽章 アレグロ マ ノン トロッポ

第3楽章 アレグロ アッサイ ヴィヴァーチェ セリオーソ

第4楽章 ラルゲット―アレグロ アジタート

ベートーヴェンはこの曲を書き上げてから14年間この分野に作品を残していない。この曲には特別な意味合いが込められているのか、

第10番の会話するような繊細な四つの弦楽の交わす歌の中にある旋律の優美さはどこにもない。

決然と何かを吹っ切るかのように、自分の内なる音楽の世界に対峙しているかのように、あるいはその後の晩年の傑作の森に至る道を見据え、そこにジャンプするために大きく身をかがめたのか

自己表現のその表現を音として一旦外に出したものを自分で確かめることが困難になった。耳の変調と目の病変が自分の内省から外に搾りだした音楽をその耳で確認する作業が困難となった。

それが最も分かりやすかったのは単一の楽器が重なっても決して混濁することのない弦楽の鋭い擦過音。その中で彼はこれ以後の、死が己と音楽を分かつまで、内なる音楽がどれだけの可能性を以てわが耳に再現されるか、自分の内省を表現する武器を確認したのではないか。

この曲はかなり晦渋と言える。

第1楽章、決然とユニゾンの中に荒々しい主題が駆け抜ける。一転ヴィオラの歌が決して交わらぬ異質な歌を歌いかけてはじける。加熱した意志のマグマの泡がはじけようとする前にもう次の音が膨らみ始める。息つく暇もない音の言葉の羅列。主題は?この音階進行は何?激しく、メロディが浮かぶ度にあちこちから吹き上がる音階に塗り重ねられた挙句吐き切ったかのように静かに閉じる。ボクは熱情ソナタがあまり好きじゃないけど、それとはまた別次元のアタックに面食らう。

第2楽章は意識的に第1楽章の調性を遠ざけるように無表情なチェロが導き、交わることなくヴィオラのフガートまでの道筋を決して交わらぬヴァイオリンが並走するように誘導する。どこへ? 自ら『セリオーソ』という発想標語をつけた付けたこの曲の中心部へそのままドアを開けて駆け込む。

その第3楽章は4分の3拍子の舞曲、スケルツォ。コラールっぽい旋律線には贅肉がなく、優美さもない。けっしてBGM にならない。その気にならなければ絶対入ってこない音楽。

どちらかというと醜い。だけど美しい。

終楽章

音楽を裡なるものが突き上げ、降りてくる天啓がそれを包む。
決して美しくはないけれど、美しいという言葉の多様性を醜いものまでに広げて行く可能性を内包した巨大な世界。
全てが擦過音で構成される弦楽四重奏曲はある意味で旋律を歌わせることを安易に選べばそこで停滞してしまう、作曲家にとって自分の創造性との折り合いが難しい分野だと思う。
この曲は『厳粛』という表現をされる。それにはシリアス 『真剣』という意味も伴う。

音を確認するための耳をやがて失い、彼の耳はわずかに残る弦楽の鋭い擦過音の中に内省の全てを託すことが可能だと確認したのではなかろうか。

彼がここで表現した旋律は美しいか?これは人が楽しむための音楽か?

この世界は古臭いとか新しいかとかいうレベルで語れることだろうか?

これ以後のこの分野の彼の作品はほぼすべてがここから出発している。

ボクは楽しんで聴くことはない。でも聴いてしまう。CDの展示はスメタナSQのバランスの取れた演奏で行ったけれど、この曲に関しては1960年のジュリアードSQの生一本をよく聴く。彼らの気概は第1楽章の荒々しさに顕れている。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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