私の 倉俣 史朗

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「これだ!」「こういう仕事があるんだ!」

地元宇都宮の上野さん(上野百貨店)の正面・大ウインドウを見た時だった。
稔の秋、稲穂をたわわに実らせ刈入れを待つばかりの田甫が広いショゥウインドゥ一杯に再現されていた。

進学クラスにいたものの、数学や物理に落ちこぼれ公立大学を諦めざるを得ない私に、
道が開けた瞬間でした。

どうすれば(こういう仕事に就けるのか)? 
60年前の栃木の田舎にそんな情報は皆目なかった。
辿り辿って、雑誌/ジャパン・インテリアを知り、倉俣史朗の存在を知る。

短絡的に・・・桑沢デザイン研究所に就学したのでした。

倉俣史朗(1934 - 1991)
都立工芸を経て、1956年桑沢デザイン研究所卒
銀座4丁目交差点で建設が計画された「三愛ドリームセンター」に憧れて入社
1957年~64年 三愛宣伝課に籍をおき、
店舗設計、ショーケース、ウインドウディスプレイの仕事に携わる。
最期の画像は、7本針の時計・時計 clock n.d

往時の三愛は、高田賢三や松田光弘(ニコル)など新進気鋭のデザイナーを擁し、光り輝く存在でした。
高田 賢三の「回想録」によると、
1960年代前半、ニコルの松田光弘と一緒に、憧れの「三愛」の企画室に就職、デザイナーとして働いていた。
そのあと、夢にまで見たのパリへと旅立った・・・と記されています。 

三愛ドリームセンター:リコー創業者/市村清が、婦人服の三愛などを含めた「リコー三愛グループ」のシンボルとして1963年開館、 林昌二(日建設計)設計。
独特の円筒形の建築デザインで、向いの和光と並び銀座のランドマークとして広く認識されてきました。
アイデアマンの市村は 開業時、隣地に同じ円筒形の交番を警視庁に寄贈、
「銀座4丁目交番」は、1980年代後半まで広く親しまれていました。

三愛ドリームセンタービルは現在建替え中で、新ビルは'27年竣工予定。

さて、人生とは本当に面白い。 
20余年の曲折の後、その「GINZA 三愛」のデザインに深く関わることになったのでした。 
99Fに記述しています・・・・

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